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タグ:阪神淡路大震災 ( 8 ) タグの人気記事

1.17 [2]

1995.1.17

その日は私だけが神戸を離れていたため、
一緒に過ごした家族の痛みに共感出来ないもどかしさがありました。
被災地の住民でありながら、被災者ではなかった。
特定疾患(難病)が発覚し、遠く離れた地で手術を受けた当時の夫に
付き添うことが精一杯だった私。
そのため、私はみんなから話を聞くことでしか、
被災状況を知ることが出来ませんでした。
そこで、少しでも家族の痛みをわかりたくて、
被災地で必死に写真を撮りました。
あちこちに貼られた「見物するなら帰れ」という趣旨の
手書きの看板を見るにつけ、
自分がそれと同じことをしているような気がして、
うしろめたさで心が痛んだ日もありました。
だけど、震災当日ここにいなかった私には、
今残っている姿の神戸を記録しておくことしか出来ないのも事実です。
その気持ちに突き動かされて、思いつくままに出向き、
シャッターを切りました。

“震度7”を知らない神戸市民が震災を語れるワケがない。
被災地に住みながら被災者ではない私が震災を語ることに
罪悪感を覚えました。
今でも複雑な想いは残りますが、それでも、
あの時、生々しい傷跡の残る神戸の街を実際に歩かなければ
わからなかったことはたくさんあります。

瓦礫の中、親友の実家で片づけに追われるお父様とご対面。
壊れて傾いた隣家の方々を助け出されたお話を聞きました。
神戸の観光スポットを走るシティループには
「緊急車両」の文字が掲げられ、
休日には子供たちの歓声が響き渡る動物園周辺は、自衛隊の臨時基地に。
その近くにあった母校の体育館は、遺体収容所になっていました。
そして、あちこちに貼られた
「自衛隊さん ありがとう」
「がんばろう 神戸」
の貼り紙。
当時はカメラ付き携帯もデジカメもない時代。
何度かの引越で、写真やネガも紛失してしまいましたが、
私の記憶には確かに刻まれました。

そして、やはり想うことは、たびたび報道されているように

災害の記憶は風化させてはいけない

その一語に尽きる、ということです。
被害の甚大さや、極限の中で支え合った絆の深さ、
普段からの備えがいかに大切か。
阪神淡路大震災を知らない神戸市民が50%に迫ろうとしている今、
20年という節目に、私も自分に出来ることを
これからも考え続けていかなければと、改めて思います。
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by fujimal_love | 2015-01-18 10:52 | 地元のこと | Comments(0)

1.17 [1]

 
このところTVでは震災関連の報道特集が多く、
あの時の揺れや火災現場のシーンが映るたびに、
母は「もうやめて!」と目を背けます。
かなりトラウマになっていて、未だに画面を正視出来ないようです。
私自身も震災と当時の夫の病気とが重なり、
当時は毎日が戦争のようでした。

20年前のあの日、私は滋賀県大津市というところにいました。
一週間ほど前に大手術を終えた夫が動けず寝たきりのため、
ずっと泊り込んでいたのですが、
地震が起きた5:46には2人とも起きていて、
揺れた瞬間、私は夫が横たわるベッドにしがみつきました。
滋賀県は震度4でしたが、もっと激しかったように感じました。
少し落ち着いてきた時、夫が持っていた小型TVをつけた途端、
目に飛び込んできた信じられない映像に
私たちは凍り付きました。

神戸が大変なことになっている-。

その日、私は一度神戸市内の自宅に戻る予定でしたが、
交通が寸断されたため帰るに帰れず、
そのまま病院のご厚意で10日ほどお世話になることに。
私は衣類の替えがなかったため、慌てて買いに走りました。

自宅は比較的被害の少ない場所にありましたが、
術後の夫と一緒に居られたのは不幸中の幸いでした。
今のように携帯電話もなく、簡単にお互いの安否も掴めない中で、
もし一人きりで自宅にいたら、おかしくなっていたかも知れません。

実際に、実家の両親や弟たちとは丸2日連絡が取れず、
最悪の事態も考えました。
海岸近くに石油タンクがあり、爆発の危険があるため、
指示される避難場所が刻々と変わり、逃げ惑っていたそうです。
その後、連絡が取れて全員が無事であることが判明。
1月末近くになって、途切れ途切れに開通した交通機関を辿り、
自宅と病院とを片道6時間かけて往復。
夫や自分の衣類、バスタオルの替えなどが入った
大きな荷物を抱えての移動は大変でした。
やはりまだ30代と若く、気も張っていたから乗り切れたのでしょう。

また、元夫の実家周辺は火災の酷かった地域で、
木造の民家が密集する地域。
あとで聞いた話ですが、隣の家が傾いて元夫の実家に寄り掛かり、
いつ倒れてもおかしくなかった、と。
そこには義母と義兄(長男)が住んでいましたが、危険を感じた義兄は
被災を逃れたもう一人の義兄(次男)宅に義母を託したそうです。
その後、隣家は撤去され、実家は義兄が自分で修繕をしたそうです。

幸い、身内に亡くなった者はいませんでしたが、
当時、事務員として勤務していた新聞販売店では、
支店長の奥様が朝刊の配達中に地震に遭い、
崩れてきた塀の下敷きになって、34歳の若さで殉職されました。

実家のあった東灘区はライフラインの復旧が遅れ、
私も暫く滋賀県の病院へ通うために、両親とともに
叔父のつてで大阪のとある会社の社員寮の空き部屋を借り、
そこで2ヶ月ほど過ごしました。
震災の傷跡がまだ生々しかった3月に地下鉄サリン事件が起こり、
何が何だかわからないうちに春が過ぎていきました。
そのため、その年だけ、桜の花が咲いたかどうかの記憶がありません。
季節を感じる余裕はまだなかったのでしょうね。

その年の夏、漸く退院出来た夫は、手術によって
全身麻痺の危機は脱したものの、重度の身体障害を負うことに。
それを悲観するよりも受け止めようとする夫のバイタリティーに救われました。
そして退院後、2人で訪れた長崎のハウステンボスは
半年間、瓦礫の山しか目にしてこなかった私にとって、別天地でした。

あれから、日本は地震の活動期に入ったと言われています。
東日本大震災の記憶もまだ新しいところ。
その他にも各地で地震が頻発しています。
火山国である日本に住んでいるのだから、
地震が起きるのは仕方がないことだとわかってはいても、
もう二度とあんな震災には遭いたくない。

例年、神戸ルミナリエの会場にもなっている東遊園地で行われる
追悼行事に参加してきましたが、
今年は仕事で行けないため、
明日の朝5:46には、黙祷を捧げてから出勤したいと思っています。
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by fujimal_love | 2015-01-16 21:53 | 地元のこと | Comments(0)

地震

真夜中、ふと目が覚めて、時刻を確認しようと携帯に手を伸ばした時、

・・・!!

ゆさゆさと揺れがきた((+_+))

えっ!? こわ・・・(>_<)

思わず声が出た。

すぐ携帯を見た。

え・・・1:17

あの震災から20年。
1.17という数字に敏感になってしまう。

今朝、確認したら、ここは震度2。
それだけの揺れでもこんなに怖い(*_*;
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by fujimal_love | 2014-08-06 11:10 | 災害 | Comments(0)

神戸ルミナリエ 2013

今年も見に行くことが出来ました。
美しさに言葉が出ません。
ただ、それだけです。

2013.12.12
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こんなコラボもありました。
合掌。
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by fujimal_love | 2013-12-18 15:57 | 地元のこと | Comments(0)

第18回 神戸ルミナリエ

昨日は母と2回目のルミナリエへ。
点灯時間が17時15分と少し早くなり、まだ明るいうちに始まってしまったので、
点灯前の様子が少しわかりにくいのですが、
白く浮かび上がる輪郭がとても美しくて、ここ数年はこの瞬間を狙って
点灯前・点灯後の写真を撮るために会場へ来ることが多くなりました。

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ちなみに、意外と知られていないのですが、
神戸ルミナリエは1995年の開始以来まったく同じものではなく、
イタリアのヴァレリオ・フェスティというアーティストが中心となって
毎年デザインされるため、毎年違った表情になっています。
テーマも毎年設けられ、今年のテーマは「光の絆」。
私がこの18回中一番気に入っているのは2009年デザインのルミナリエです。
今でも撮った画像をPCの壁紙や携帯の待受によく設定しています。
しかし、ルミナリエは美しいだけではなく、1月17日の阪神大震災の日と並んで、
震災犠牲者を追悼する大切なセレモニー。
18年前の震災では、私自身は親族も含め全員無事でしたが、
当時、新聞販売店で事務をしていた私には、配達中に殉職された女性上司がいます。
まだ34歳という若さでした。
ルミナリエは彼女のことを思い出す大切な機会のひとつ。
東日本大震災の被災地との連携もあります。
今も世界各地で大地が揺れ動き、自然の猛威を前にしては
人間の非力さを思い知らされることばかり。
そんな中でも、犠牲者の方々への追悼の気持ちだけは持ち続けたいです。

来年、結婚式を挙げるチャペルのあるホテルも、
震災のあった年の夏に開業しました。
その際、被災した系列ホテルから、神戸港の灯台の管理を引き継ぎ、
今も現役で海を見守る灯台が、ホテルの敷地内に設置されています。
そして、毎年、震災のあった日にその灯台が一般公開されます。
そんな縁もあり、結婚後は神戸から少し離れますが、
出来ればルミナリエが続く限り私も訪れて、犠牲者の追悼をしたいと思います。

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by fujimal_love | 2012-12-15 18:16 | 地元のこと | Comments(0)
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昨日、神戸市中央区の東遊園地へ震災の追悼に行きました。

点灯開始は17:00。
今年は東日本大震災の犠牲者の方々への追悼も行われ、
1.17そして3.11の形に並べられた竹灯篭に火を灯し、
17年前、殉職した先輩を偲び、手をあわせてきました。

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記者さんにインタビューを求められ、
躊躇う私の横で、母は記者さんの質問に答えていました。
昨年、宮城県在住の叔母(母の妹)が被災したこともあり、
今年は母にとって特別な想いがあるようです。


そのあと、献金と記帳をし、白い菊の花を受け取って
献花スペースへ。

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この建物の足元に水を張った囲いがあり、
その中へ菊の花を献花しました。



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たくさんの竹灯篭の火を見て思ったこと。

私たちは、奇跡の上に奇跡が重なって、今、ここにいる。
災害に遭いながらも生き永らえ、かけがえのない家族や友人、知人と
こうして生きている。

これは 奇跡以外の何ものでもない ということ。

生かされていることへの感謝を忘れることなく過ごしていきたいと
改めて感じました。

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※灯火用の蝋燭で火をつけていきますが、衣服に燃え移るのを防ぐため、
  向こう側の背の高い竹灯篭から手前の竹灯篭へと灯火していくようにします。
  来年まで覚えておかなきゃ(^^ゞ
 
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by fujimal_love | 2012-01-18 16:38 | 地元のこと

神戸ルミナリエ2011


点灯前

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点灯!

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今年は東日本大震災の鎮魂も込めているせいか、
月曜日だというのに混雑していて、
点灯開始10分前に、点灯を早めるアナウンスが流れました。
写真を撮るのに夢中で
2011バージョンの切手を買いそびれたので、
会期中にもう一度行けたらと思っています。

17年前に阪神淡路大震災で亡くなった職場の先輩も、
この灯りを空から見てくれてますよね。
来年はいい年にしたいです♪

d0155893_111713100.jpgお月さまも参加

d0155893_11143262.jpg公式グッズです

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by fujimal_love | 2011-12-06 11:15 | 地元のこと

1.17

  
私にとっての 1.17 はちょっと複雑。
当日は神戸の自宅を離れ、
滋賀県の大津というところにいました。
当時の夫が難病にかかり、
一週間前に大手術を終えたばかりで、
私は病室に簡易ベッドを並べて泊まり込み、
着たきりスズメだったので、
その日に一旦自宅へ戻る予定でした。
そこへ、あの地震。
交通は寸断されて帰れなくなり、病院のご厚意で
もう暫く置いていただけることになりましたが、
東灘区の両親や弟と連絡が取れず、
もう亡くなってしまったかも知れない、と
一時は絶望的になりました。
夫の実家も長田区というところにあり、
火災の激しかった場所でしたが、
幸い、どちらの親族にも不幸はありませんでした。
後で私の両親に聞いた話によると、
一旦避難場所に移動したところ、
今度は石油タンクが爆発する恐れがあるため
別の場所に避難するよう勧告されたそうです。
今のように携帯は普及しておらず、
やっと落ち着いた先で公衆電話に並び、
ようやく遠方の病院にいた私に連絡が入ったのは、
地震から2日後でした。
それから10日ほどして、
友達のご主人(自衛官)が心配して訪ねてきてくれ、
車で自宅まで送り届けてくれました。
神戸市内でしたが、幸い、多少背の高いものが
倒れた程度でした。
部屋を見渡して落ち着いてくると、逆に
震災当日大津にいなければ夫のいる病院にも行けず、
両親や弟とも連絡が取れずに、一人ぼっち…
そんな状況に耐えられたかどうか、と思うと、
ぞっとしました。

その後、ライフラインが断たれた実家で過ごすのを諦めた
両親たちと
叔父の会社の社員寮の空室を世話して貰い、
そこから病院まで数日おきに通いました。
豊中市内でしたが、ここも大阪府で唯一の被災地に指定され、
社員寮のエアコンの室外機はすべて壊れていたため、
電気ストーブを持ちこんで暖を取りました。
そこから滋賀県の大津まで重い荷物をかかえ、
電車を乗り継ぎ、
片道何時間もかけての移動は大変でしたが、
被災された方に比べれば…と気力で術後の夫を励ましました。

その時のストレスは、時間が経っても残っていたのでしょう。
夫が回復してきたため、会社復帰に備えて
神戸のマイホームをその年の暮れに引き払いました。
が、震災直後ということでなかなか買い手がつかず、
暫くは二重家賃の状態に。
そんな中、年が明けてまもなく、私は失神を繰り返しました。
『劇場型』というそうですが、人がいる安全な場所で
SOSを発するそうで、
一度は夫が運転する車の中でした。
直前までの記憶ははっきりと残っているのですが、
気がつくと自宅前の駐車場でした。
意識がなかったのは10分ほどで、何も覚えていませんが、
夫は私が舌を噛まないように、
自分の手を私の口の中に入れていたそうです。
おぼろげながら意識が戻り始めましたが、
頭がぼんやりして、夫が何か質問したことに対して
「わからない」と答えたのを覚えています。
駐車場から自宅へ入り、寝室あたりまで来たところで
ようやく意識がはっきりしてきました。
その後2ヶ月ほどして、再び失神。
この時は通院先の病院で投薬待ちの間に突然気を失い、
気がついた時にはストレッチャーに寝ていて、
付き添っていた看護師さんが
「もうすぐご主人が来られますよ」と。
投薬内容を見直し、変更して貰いました。

あの大手術のあと、重い障害を背負うことになった夫とは、
その後、私の介護鬱のため、やむを得ず離婚しました。
『元気にしているのかしら』
母もずっと気にかけているようで、時々つぶやきますが、
その後は二人とも黙ってしまいます。

私にとって1.17という日は、添い遂げられなかった
最初の夫への懺悔の日でもあります。
別れてから11年、一度も会ったことはありませんが、
当初気丈に一人暮らしをしていた元夫も、
風の噂で、今は長田区で一人暮らしをしていた
お兄さんのもとで
一緒に暮らしているとのこと。

 
 寒い季節には手術の傷が疼くでしょう。
 身体を大切にして下さい。
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by fujimal_love | 2011-01-17 23:41 | 地元のこと