It's all right.

fujimal.exblog.jp

大丈夫。まだまだ、これから。

ブログトップ

1.17 [1]

 
このところTVでは震災関連の報道特集が多く、
あの時の揺れや火災現場のシーンが映るたびに、
母は「もうやめて!」と目を背けます。
かなりトラウマになっていて、未だに画面を正視出来ないようです。
私自身も震災と当時の夫の病気とが重なり、
当時は毎日が戦争のようでした。

20年前のあの日、私は滋賀県大津市というところにいました。
一週間ほど前に大手術を終えた夫が動けず寝たきりのため、
ずっと泊り込んでいたのですが、
地震が起きた5:46には2人とも起きていて、
揺れた瞬間、私は夫が横たわるベッドにしがみつきました。
滋賀県は震度4でしたが、もっと激しかったように感じました。
少し落ち着いてきた時、夫が持っていた小型TVをつけた途端、
目に飛び込んできた信じられない映像に
私たちは凍り付きました。

神戸が大変なことになっている-。

その日、私は一度神戸市内の自宅に戻る予定でしたが、
交通が寸断されたため帰るに帰れず、
そのまま病院のご厚意で10日ほどお世話になることに。
私は衣類の替えがなかったため、慌てて買いに走りました。

自宅は比較的被害の少ない場所にありましたが、
術後の夫と一緒に居られたのは不幸中の幸いでした。
今のように携帯電話もなく、簡単にお互いの安否も掴めない中で、
もし一人きりで自宅にいたら、おかしくなっていたかも知れません。

実際に、実家の両親や弟たちとは丸2日連絡が取れず、
最悪の事態も考えました。
海岸近くに石油タンクがあり、爆発の危険があるため、
指示される避難場所が刻々と変わり、逃げ惑っていたそうです。
その後、連絡が取れて全員が無事であることが判明。
1月末近くになって、途切れ途切れに開通した交通機関を辿り、
自宅と病院とを片道6時間かけて往復。
夫や自分の衣類、バスタオルの替えなどが入った
大きな荷物を抱えての移動は大変でした。
やはりまだ30代と若く、気も張っていたから乗り切れたのでしょう。

また、元夫の実家周辺は火災の酷かった地域で、
木造の民家が密集する地域。
あとで聞いた話ですが、隣の家が傾いて元夫の実家に寄り掛かり、
いつ倒れてもおかしくなかった、と。
そこには義母と義兄(長男)が住んでいましたが、危険を感じた義兄は
被災を逃れたもう一人の義兄(次男)宅に義母を託したそうです。
その後、隣家は撤去され、実家は義兄が自分で修繕をしたそうです。

幸い、身内に亡くなった者はいませんでしたが、
当時、事務員として勤務していた新聞販売店では、
支店長の奥様が朝刊の配達中に地震に遭い、
崩れてきた塀の下敷きになって、34歳の若さで殉職されました。

実家のあった東灘区はライフラインの復旧が遅れ、
私も暫く滋賀県の病院へ通うために、両親とともに
叔父のつてで大阪のとある会社の社員寮の空き部屋を借り、
そこで2ヶ月ほど過ごしました。
震災の傷跡がまだ生々しかった3月に地下鉄サリン事件が起こり、
何が何だかわからないうちに春が過ぎていきました。
そのため、その年だけ、桜の花が咲いたかどうかの記憶がありません。
季節を感じる余裕はまだなかったのでしょうね。

その年の夏、漸く退院出来た夫は、手術によって
全身麻痺の危機は脱したものの、重度の身体障害を負うことに。
それを悲観するよりも受け止めようとする夫のバイタリティーに救われました。
そして退院後、2人で訪れた長崎のハウステンボスは
半年間、瓦礫の山しか目にしてこなかった私にとって、別天地でした。

あれから、日本は地震の活動期に入ったと言われています。
東日本大震災の記憶もまだ新しいところ。
その他にも各地で地震が頻発しています。
火山国である日本に住んでいるのだから、
地震が起きるのは仕方がないことだとわかってはいても、
もう二度とあんな震災には遭いたくない。

例年、神戸ルミナリエの会場にもなっている東遊園地で行われる
追悼行事に参加してきましたが、
今年は仕事で行けないため、
明日の朝5:46には、黙祷を捧げてから出勤したいと思っています。
[PR]
名前
URL
画像認証
削除用パスワード

※このブログはコメント承認制を適用しています。ブログの持ち主が承認するまでコメントは表示されません。

by fujimal_love | 2015-01-16 21:53 | 地元のこと | Comments(0)