It's all right.

1.17

  
私にとっての 1.17 はちょっと複雑。
当日は神戸の自宅を離れ、
滋賀県の大津というところにいました。
当時の夫が難病にかかり、
一週間前に大手術を終えたばかりで、
私は病室に簡易ベッドを並べて泊まり込み、
着たきりスズメだったので、
その日に一旦自宅へ戻る予定でした。
そこへ、あの地震。
交通は寸断されて帰れなくなり、病院のご厚意で
もう暫く置いていただけることになりましたが、
東灘区の両親や弟と連絡が取れず、
もう亡くなってしまったかも知れない、と
一時は絶望的になりました。
夫の実家も長田区というところにあり、
火災の激しかった場所でしたが、
幸い、どちらの親族にも不幸はありませんでした。
後で私の両親に聞いた話によると、
一旦避難場所に移動したところ、
今度は石油タンクが爆発する恐れがあるため
別の場所に避難するよう勧告されたそうです。
今のように携帯は普及しておらず、
やっと落ち着いた先で公衆電話に並び、
ようやく遠方の病院にいた私に連絡が入ったのは、
地震から2日後でした。
それから10日ほどして、
友達のご主人(自衛官)が心配して訪ねてきてくれ、
車で自宅まで送り届けてくれました。
神戸市内でしたが、幸い、多少背の高いものが
倒れた程度でした。
部屋を見渡して落ち着いてくると、逆に
震災当日大津にいなければ夫のいる病院にも行けず、
両親や弟とも連絡が取れずに、一人ぼっち…
そんな状況に耐えられたかどうか、と思うと、
ぞっとしました。

その後、ライフラインが断たれた実家で過ごすのを諦めた
両親たちと
叔父の会社の社員寮の空室を世話して貰い、
そこから病院まで数日おきに通いました。
豊中市内でしたが、ここも大阪府で唯一の被災地に指定され、
社員寮のエアコンの室外機はすべて壊れていたため、
電気ストーブを持ちこんで暖を取りました。
そこから滋賀県の大津まで重い荷物をかかえ、
電車を乗り継ぎ、
片道何時間もかけての移動は大変でしたが、
被災された方に比べれば…と気力で術後の夫を励ましました。

その時のストレスは、時間が経っても残っていたのでしょう。
夫が回復してきたため、会社復帰に備えて
神戸のマイホームをその年の暮れに引き払いました。
が、震災直後ということでなかなか買い手がつかず、
暫くは二重家賃の状態に。
そんな中、年が明けてまもなく、私は失神を繰り返しました。
『劇場型』というそうですが、人がいる安全な場所で
SOSを発するそうで、
一度は夫が運転する車の中でした。
直前までの記憶ははっきりと残っているのですが、
気がつくと自宅前の駐車場でした。
意識がなかったのは10分ほどで、何も覚えていませんが、
夫は私が舌を噛まないように、
自分の手を私の口の中に入れていたそうです。
おぼろげながら意識が戻り始めましたが、
頭がぼんやりして、夫が何か質問したことに対して
「わからない」と答えたのを覚えています。
駐車場から自宅へ入り、寝室あたりまで来たところで
ようやく意識がはっきりしてきました。
その後2ヶ月ほどして、再び失神。
この時は通院先の病院で投薬待ちの間に突然気を失い、
気がついた時にはストレッチャーに寝ていて、
付き添っていた看護師さんが
「もうすぐご主人が来られますよ」と。
投薬内容を見直し、変更して貰いました。

あの大手術のあと、重い障害を背負うことになった夫とは、
その後、私の介護鬱のため、やむを得ず離婚しました。
『元気にしているのかしら』
母もずっと気にかけているようで、時々つぶやきますが、
その後は二人とも黙ってしまいます。

私にとって1.17という日は、添い遂げられなかった
最初の夫への懺悔の日でもあります。
別れてから11年、一度も会ったことはありませんが、
当初気丈に一人暮らしをしていた元夫も、
風の噂で、今は長田区で一人暮らしをしていた
お兄さんのもとで
一緒に暮らしているとのこと。

 
 寒い季節には手術の傷が疼くでしょう。
 身体を大切にして下さい。
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by fujimal_love | 2011-01-17 23:41 | 地元のこと
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